国際オリンピック委員会(IOC)

IOC新会長にコベントリ―氏、アフリカ出身・女性初 渡辺氏は落選

カースティ・コベントリー氏 出典 IOC

 国際オリンピック委員会(IOC)の会長選挙が20日、ギリシャ南部のコスタ・ナバリノで行われ、唯一の女性候補、カースティ・コベントリーIOC理事(41)=ジンバブエ=が当選した。1894年に創設されたIOCで女性がトップになるのは初めて。全員が欧米出身の歴代会長9人に代わり、初のアフリカ出身でもある。トーマス・バッハ会長(71)が退任する6月に就任する。
 コベントリー氏は競泳で五輪5大会に出場し、金メダル2個を含む計7個のメダルを獲得。母国ではスポーツなどを担当する大臣を務める。
 2013年にIOC委員に就任し、早くから理事などの要職を任されてきた。
• 突然消えた「バッハ続投」、退任表明の舞台裏 混迷のIOC会長選
 会長選には7人が立候補し、約100人のIOC委員が投票し、最も得票数の少なかった候補が外れ、過半数の候補が出るまで争う方式を採用。
 コベントリー氏は1回目の投票で過半数に達し、当選を決めた。バッハ会長が後継者に推している、と言われる中での激戦を勝ち抜いた。
 日本人で初めて名乗りを上げ、アジア出身で初のトップをめざした国際体操連盟会長の渡辺守成氏(66)は落選した。

 41歳の女性が10代目のオリンピックのトップに立つ。ギリシャで行われた国際オリンピック委員会(IOC)の次期会長選挙を制したのは、競泳の金メダリスト、カースティ・コベントリーIOC理事(ジンバブエ)だった。
 IOC会長に21年間君臨した7代目会長の息子、フアンアントニオ・サマランチ・ジュニアIOC副会長や陸上中距離の金メダリストで、世界陸連会長のセバスチャン・コー氏など7人が名乗りをあげた戦いに勝った。
 日本人で初めて立候補した国際体操連盟会長の渡辺守成氏はわずか4票に沈んだ。
 アジア出身としても初の会長をめざした渡辺氏は「革新的な候補者」として注目を浴びた。従来の原則1都市開催では経済大国でしか開けないと主張し、公約には夏季五輪の「5大陸5都市での同時共催」という大胆な構想を打ち上げた。
 「スポーツの平和への貢献」を念頭に、選挙戦終盤にはロシアが侵攻するウクライナの首都キーウ、さらにモスクワも訪れ、選手と交流するなど精力的に動いたが支持は広がらなかった。


各候補の得票数
カースティ・コベントリー(ジンバブエ)49
サマランチ・ジュニア(スペイン)   28
セバスチャン・コー(英国)       8
渡辺守成(日本)            4
ダビド・ラパルティアン(フランス)   4
ファイサル・アル・フセイン(ヨルダン) 2
ヨハン・エリアシュ(英国)       2

バッハIOC会長 出典 IOC

バッハIOC会長は6月に任期満了で引退表明、会長選挙へ

 バッハ現IOC会長は6月に任期満了で引退、これを受けて新しい国際オリンピック委員会(IOC)会長を選ぶ選挙の投票が3月20日にギリシャで行われるIOC総会で行われる。
 総会は、古代五輪の舞台オリンピアがあるギリシャのペロポネソス半島のリゾート地、コスタ・ナバリノで開かれ、3月18日にオリンピアでオープニングセレモニーが催され、9日から3日間の予定でひらかれる。 7人が立候補している会長選挙は、109人のIOC委員の投票により3月20日午後(日本時間夜)に行われる。バッハ会長は、名誉会長に就任することが決まった。

 会長選挙に、立候補している7人は、IOC副会長のジュアン・アントニオ・サマランチ氏(Juan Antonio Samaranch Jr. スペイン)、ワールドアスレティックス(World Athletics 世界陸連)会長のセバスチャン・コー氏(Sebastian Coe 英国)、ヨルダン皇太子のファイサル・アル・フセイン氏(Feisal Al Hussein ヨルダン)、国際体操連盟(FIG)会長の渡辺守成氏(Morinari Watanabe 日本)、国際自転車連合(UCI)会長でフランス・オリンピック員会の会長のダビド・ラパルティアン氏(David Lappartient フランス)、国際スキー・スノーボード連盟(FIS)会長でスポーツ用品企業の会長のヨハン・エリアシュ氏(Johan Eliasch 英国)、唯一の女性候補で競泳女子の金メダリスト、カースティ・コベントリー氏(Kirsty Coventry ジンバブエ)はジンバブエのスポーツ大臣である。

 ジュアン・サマランチ氏は、1980年から21年間に渡ってIOC会長を務めたファン・アントニオ・サマランチの長男。ウオール街の金融企業で働いた経験を活かし、IOCでの「知識、経験、人脈」を活用した投資ファンドを設立し、スポーツ関連事業への投資を掲げる。また五輪大会のホストブロードキャスターであるオリンピック放送機構(OBS)の収益化を訴える。

 セバスチャン・コー氏は、英国の陸上界のヒーロー、モスクワ1980とロサンゼルス1984、ともに1500mで金メダル、800mで銀メダルを獲得し、中距離種目における世界記録更新は12回を数える。2015年に行われた国際陸連(IAAF)第六代会長に就任した。陸上界のNo1の実力者。五輪の開催地選定に関しIOC委員が意思決定プロセスにより深く関わるべきとして、見直しを訴えている。ウクライナ問題でのロシアに対しては強硬派、パリ五輪2024では、IOCは、国を代表しない個人資格の「中立選手」としての競技復帰を認めたが、コー会長は資格停止処分を継続した。バッハ会長とは犬猿の仲と言われている。

 渡辺守成氏は、日本人では初のIOC会長選へ立候補した。IOCが社会貢献やスポーツビジネスに関わる必要性を説いたうえで、IOCを「世界スポーツ機関(WSO)」に改称する案を示し、世界五大陸の5都市で同時期に夏季大会を共催する「五大陸五輪」の構想を披露している。

 ダビド・ラパルティアン氏はIOCの新大会「オリンピック・eスポーツ・ゲームズ」の開催を委員長として主導した。公約には発展途上国の選手への支援の必要性を強調し、国や地域の大きさや発展の度合いにかかわらず、世界の選手が平等にトレーニングに取り組める環境を整えるべきだとして、IOCが各地に「ハイパフォーマンスセンター」を開設する提案。アフリカでの五輪初開催や委員を男女同数にすることも掲げている。

 カースティ・コベントリー氏は、バッハ会長が後継者として推しているとされている。バッハの信頼が厚く、開催都市の準備状況をチェックする調整委員会などの要職を任されてきた。当選すれば、初の女性会長、初のアフリカ出身会長という新鮮さが印象づけられる。

 国際スキー・スノーボード連盟(FIS)会長でスポーツ用品企業の会長のヨハン・エリアシュ氏(Johan Eliasch 英国)は、経営者や国際競技団体の会長としての豊富な経験がIOC会長の役割に適していると訴えている。冬のオリンピックは、気候変動の問題がもたらす影響に懸念を示し、持続可能にするための方策として常設の開催地を複数、決めたうえでローテーション方式で開催する方針を示している。また、バッハ会長のこれまでの指導力をたたえ、困難な状況の中でIOCの政治的な中立を確保したことを「ノーベル平和賞に値する功績」と評価した。

 

ヨルダン皇太子のファイサル・アル・フセイン氏(Feisal Al Hussein ヨルダン)は、世界的な気候変動が進む中で、より多くの都市が開催地として立候補できるようにオリンピックの開催時期を見直すことなどを訴えている。
 また、スポーツを通じた平和貢献活動に対するIOCの関与を世界的に拡大するとして、IOCは世界中の分断を超越する求心力となり、団結への懸け橋になるべきだとしている。
 ファイサル氏が新会長になれば、欧米以外の出身者で初めてとなる。

 会長選挙の投票は一番得票数が少ない候補者を除外し、誰かが過半数を獲得するまで続く。
 今回の会長選挙は、「本命なき選挙」とされている。混戦の中で、誰が抜け出しバッハ体制の後継者の座を獲得するか、注目される。

画僧出典 国際オリンピック委員会(IOC)

2025年3月18日 ギリシャで開催された国際オリンピック委員会(IOC)総会で演説するバッハ会長

パリ五輪で突然退任表明をしたバッハ会長
 パリ五輪の閉会式を翌日に控えていた2024年8月10日、パリ市内の国際会議場でIOCの総会が開かれた。
 総会の終盤に、バッハ会長は演壇に立ち、「熟慮を重ねた結果、私は五輪憲章に規定された上限を超えて、任期を延長すべきではないという結論を出した」。退任表明である。
 会長の任期は1期目が8年、2期目が4年の「最長12年」と五輪憲章で定められている。バッハ会長は、2013年から会長を務めるバッハにとって任期は25年、任期満了をもって退任しなければならない。
 バッハ3選を支持する動きもアフリカや中南米の委員などから根強くあったが、自らそれを否定した。

リオデジャネイロ総会(2013年)でロゲ元会長の後を受けて会長に就任
 トーマス・バッハ氏(Thomas Bach)は、1953年生まれ、旧西ドイツのバイエルン州ヴュルツブルク出身。
ヴュルツブルク大学法学部で法律・政治学を学び、司法試験に合格して、弁護士事務所を開設し弁護士として活動した。
 1985年、アディダス(スポーツ用品)会長のホルスト・ダスラーに誘われ、同社の国際関係部局の責任者となり、その後もいくつかの企業で役員を歴任した。
バッハ氏はフェンシング選手として活躍した。1973年、フェンシング世界選手権にフルーレ団体で出場し、準優勝。1976年、モントリオールオリンピックのフェンシングフルーレ団体で西ドイツチームの一員として金メダルを獲得し、同時に世界選手権で優勝、1979年、メルボルンの世界選手権にフルーレ団体で出場して銅メダルを獲得した。
早くからスポーツ関連組織で活動し、西ドイツ・フェンシング連盟(DFB)のスポークスマンを務め、1981年、IOCに新設されたアスリート委員会の委員、1982年、旧西ドイツのオリンピック委員会の委員に就任した。
 1991年にIOC委員となり、1996年にはIOCの理事に就任、2000年のシドニー111次IOC総会で、IOC副会長に選出された。続いて2006年、トリノIOC総会でも副会長に再選され、当時のジャック・ロゲ会長の有力な後任候補となった。
2013年9月10日にアルゼンチン・ブエノスアイレスIOC総会で、ジャック・ロゲ氏の後任として第9代IOC会長に選出された。

根強くあった「バッハ3選」
 「バッハ3選」の動きは、根強くあったと思われる。
2023年10月、インド・ムンバイでの総会では、4人のIOC委員がこれまでのバッハの功績を称賛し、3期目継続を訴えた。「会長の側近が台本を用意しているらしい」、総会前に流れていたうわさ通りの展開だったという。
 バッハは「私は五輪憲章に忠実だ」と明言した。しかし総会ではバッハに近い副会長のジョン・コーツが手際よく、「憲章の修正案は総会の30日前には提出する必要がある」と手順まで説明している。

バッハ体制の12年
 バッハ氏は、12年もの長期に渡ってIOC会長を務め、ソチ冬季五輪、リオデジャネイロ夏季五輪、平昌冬季五輪、東京夏季五輪、北京冬季五輪、パリ夏季五輪の6つの大会の開催を担った。
リオデジャネイロ五輪ではロシアのドーピング問題と政治的混乱に見舞われ、東京五輪ではコロナのパンデミック、北京五輪では人権問題、パリ五輪ではウクライナ侵略でロシアの排除問題で揺さぶれた。
東京大会開催にあたっては、日本は新型コロナのパンデミックに襲われ、緊急事態宣言中にもかかわらず「(東京五輪は)安全で確実に開かれる」など発言したことで猛烈な批判を浴びた。またワシントン・ポスト紙の記事の載せられた「Baron Von Ripper-off」を、日本のメディアが「ぼったくり男爵」と訳したことでさらに批判が高まり、この年の流行語大賞トップテンに選出された。日本でのバッハ氏のイメージは「ぼったくり男爵」が定着してしまった。
 またオリンピックの肥大化批判、商業主義批判は強まる一方で、五輪大会招致を目指す都市が、「反五輪」を掲げる住民運動の高まりで招致を断念する事態が世界各地で多発した。
しかし、バッハ氏はこうした事態に対して、総じてうまく対応し、大過なく任期を終えたとと思われる
 一方、国際オリンピック委員会(IOC)の財政基盤では、TOPスポンサーシップの充実に成功し新たな収入源として確固たるものとした。また米国、NBCユニバーサルと長期に渡る高額の放送権契約を結び、財政の安定化に寄与した功績は大きい。しかし、高騰した放送権料に対しては厳しい批判が巻き起こっている。

 バッハ体制の終焉に伴い、新しい会長は、五輪大会に対する肥大化批判、商業主義批判、高騰する放送権料、スポンサー料批判にどう対応するのか、多難な船出となると思われる。